憧れるっていうの

 

メンタリストDaiGoによると、人間は恋をすると脳の3割しか活動出来なくなって、チンパンジーになってしまうらしい。

 

本当にその通りである。

でもさぁ、どっちもチンパンジーだったらそれはそれでよくね?????

 

……。

 

なんで人間と人間ってのはどうしても上手くいかないんだろう。

私が不運なだけ?みんな、お猿さんみたいに幸せなんですか?本当は?(お猿さんに失礼。

 

この人とは一緒の時間を共有できるだけで幸せと思えるってのは恋だと思いますよ。

幸せな想像をすることもまた幸せなわけだから、恋ってのは幸せなものなんですよ。

でもさ、やっぱり、実際の生活を生きるってのは私と私に深く関わる人で成り立つ訳だから、ただずっと恋してる訳にはいかないわけ。

 

チンパンジーとチンパンジー同士がいつまでも永遠に幸せに暮らしましたってオチはなんでこんなに難しいんだろう。

 

あまりにも考えてることが違いすぎるから、といっても考えてることが違う人間を好きにならないなんてのはもう超能力なわけで。

考えてること、やりたいこと、何を幸せとするか、ってのはもう、その人自身の生きてきた人生そのものだからね。

それを否定してまで求め続けるってのはまた違うんだもん。

 

なんかすんげえ女子力高いやつみたいやん。

 

目標ってものが欲しい時、一番手っ取り早いのは憧れを持つことなんですけど、憧れっていうのがまたややこしい。

 

私は何を求めているんだろう?どういう未来を描きたいの?どんなことに幸せを感じる?

 

自分に素直に生きるってめちゃくちゃ難しい、っていうのも、素直になったとしても、この世はやりづらいことばっかりだから。

幸せを求めてちゃ生きてられない。でも生きてる限り幸せを感じたいから。

 

なんであなたは私の思い通りにならないんですか?

 

著・五十嵐彩夏

 

守らねばならない2

ある人の上半身は生き急いでしまい、足が追いついていない様だ。ある人はハロウィンのかぼちゃみたいな面で話す割には数名分の時間を頂き満足だそうだ。
ある程度大きなロータリーの様な場所にいると、ここを歩くどの人間の心もわかった様な気になる。同じ気分を嫌という程味わった事がある気がする。
こういう場所を見ると力が抜ける。そして何か自惚れの混ざった悲しみがこみ上げるのがわかる。
自惚れの混ざった悲しみはただの自己防衛だから、ホワンとした気持ちに身を任せて脳停止に陥るのは良くない。
麻酔にかかることの出来る大女が万能だと言うこともできる。

答えられないとわかりきった計算をしきりに要求している隣の人間は、その微々たる知力がどうにか連れの居場所に変化するとでも思っているのだろうか。
どこの世界に飛び込もうが、どれだけ歳をとろうが、ここを歩く限りは、たかが知れた心の持ち主として生きるのだろうと思う

石井

守らねばならない

目に飛び込んだものは片っ端から文句を言う奴だ。おまけにデカい顔して。

本質のパチモノ見抜いて、得意気にリピートリピート。うるさい女、ドウシテコウナッタンダヨ。

 

女の中には、大女と小女がいる。人格が2つあるというわけではない。マトリョーシカの様に、大女という殻が小女を包み隠しているイメージだと言えば分かりやすいだろうか。2層構造というか。

大女とは、小女を守る為だけに存在している謂わば殻である。外部から飛んでくるストレス危険物や人間を中心とした社会というものから、小女を隔絶した環境に置き、守り抜くためだけに存在している。

だからこそ、大女、感情を持つな、自我など決して持ってならぬ。お前は生き物じゃ無いんだ。ただ極めて鈍い神経だけを持っておけ、反射に必要だから。社会で根太く生き、他者とコミュニケーションを取れ。理不尽な仕打ちを受けたとして、決してやられるなよ。相応の強気な対応でしっかり闘え。他人の言動にパターン作業の様に反射し続けるんだ。 どうせ辛さも疲労も余韻もお前は感じやしないんだから。

 

小女は、社会を生き抜く強さなど身につけてはならない。何の影響も受けてはならない、社会という概念自体無い世界に存在せねばならない。そうしなければ、女は生きる意味が何もなくなってしまう。

厳重に注意された小女の心を動かしていいのは、小女が心から信頼している、小女の宝となった人間のみ。小女はその人間とだけ対話すれば良い。ほら安心安全。

小女は裸の心で、生きることが出来るだろう。純粋な心と感覚の赴くまま。

 

石井

孤独について

 

まず初めに。私は、"そっち側"の人間です。あなたはどっち側ですか?

 

意味の分からない始め方をしてしまったようですが、どうやら人間には"孤独"の世界の住人と、それと一線を画した別の世界の住人がいるようです。そして、これら別々の世界の住人達は、まるで昆虫と人間で網膜に映る景色が全く異なるように、一方は始終"孤独"を見出し、もう一方は"孤独"の片鱗すら見ることは出来ないのです。

 

ここで一言、はっきりと言っておいた方が良いでしょう。

"孤独"を感じることのない世界に住んでいる人間は、死ぬまで"たましい"というものを感じることはないでしょう。彼らは土で出来た人形のようなものです。"たましい"を持つ人間からすれば、彼らと交流を持つことは、なんら意義をなしません。"孤独"は崇高なものです。全ての人間は、"孤独"の世界に住むべき"たましい"を持つ必要があります。

 

少し思想強めになってしまいましたが、ここでちゃんとロジカルな文体に戻りたいと思います。"孤独"とは一体何なのでしょうか。

 

アメリカの心理学者クラークムスターカスは、「孤独感には自己疎外・自己拒否からくる孤独と、実存的孤独がある」と述べている。つまり、孤独と、それに伴う孤独感には自分と他者・世界との関係で捉えたものや、人間の存在そのものから来る孤独感など様々な視点があるという。

前者の孤独、つまり自分と外界の疎外感から生じる孤独は、経験したことのない人間は恐らくいないだろう。例えば運動会に自分だけ家族が来ていなくて、一人で(またはお節介な先生と)お弁当を食べた時、友達と喧嘩してしまって1日の学校生活を一人で過ごさねばならなかった時などは誰もが経験しているはずだ。しかし、私は敢えてこれらの疎外感は孤独とは見なさない。これらの孤独は、他人と自分を比べた時に生じる単なる惨めさや寂しさであり、"孤独"の世界の住人が見ているものとは別物である。

 

後者の実存的孤独とはどういうものか。これはつまり自分が"ここ"に"ある"という"孤独"である。では"ここ"に"ある"というのはどういうことか。

 

この宇宙が始まる前、そこは「無」であったという。「無」とは時間や空間さえ存在しないということだ。そこに神の息吹とも呼ぶべきある偶然で、"存在"が生まれた。そして時間は空間と物質を材料に(これら3つはどちらかというと三位一体である)、我々を作り出したのである。

 

つづく

 

著・五十嵐彩夏

 

 

 

ブログはじめました。

ブログをはじめます。

 

まず自己紹介しなければいけませんね。

私「達」は、五十嵐・石井です。

 

ブログに本名を書いてしまう人間は、なかなかいないと思う。しかし私「達」の場合、それでは意味がない。なぜならば、もし名前を公開しなければ、この文章は"ただの"『論語』や『老子』の引用だと思われてしまいかねないからである。

 

注意して頂きたいので重ねて言うが、今日これから書き記していく文章群は、五十嵐彩夏・石井光子による完全なる独自の見解であり、決して過去の偉作のモノマネではないということだ。我々の文章がどんなに素晴らしくてもここを勘違いしないで頂きたい。

 

内容としては、日々我々が語り合うことで生まれた数々の物語、個人的に考えた数々の思考は当然のこと、本好きの片方が読破した著作についての感想や、単位を取るためとは言いつつ、我々が血と汗を流し取組んだ大学の講義における数々のレポート(これらは神の手により生み出されたにも関わらず、石頭のオジサン達の手中に収まるのみなのである。)を記していくつもりである。

 

我々による無数の言葉が、貴方が自分を見つめ直し、他者と関わりあっていくために必要なエネルギーとなることを希望する。

 

著・五十嵐彩夏