孤独について

 

まず初めに。私は、"そっち側"の人間です。あなたはどっち側ですか?

 

意味の分からない始め方をしてしまったようですが、どうやら人間には"孤独"の世界の住人と、それと一線を画した別の世界の住人がいるようです。そして、これら別々の世界の住人達は、まるで昆虫と人間で網膜に映る景色が全く異なるように、一方は始終"孤独"を見出し、もう一方は"孤独"の片鱗すら見ることは出来ないのです。

 

ここで一言、はっきりと言っておいた方が良いでしょう。

"孤独"を感じることのない世界に住んでいる人間は、死ぬまで"たましい"というものを感じることはないでしょう。彼らは土で出来た人形のようなものです。"たましい"を持つ人間からすれば、彼らと交流を持つことは、なんら意義をなしません。"孤独"は崇高なものです。全ての人間は、"孤独"の世界に住むべき"たましい"を持つ必要があります。

 

少し思想強めになってしまいましたが、ここでちゃんとロジカルな文体に戻りたいと思います。"孤独"とは一体何なのでしょうか。

 

アメリカの心理学者クラークムスターカスは、「孤独感には自己疎外・自己拒否からくる孤独と、実存的孤独がある」と述べている。つまり、孤独と、それに伴う孤独感には自分と他者・世界との関係で捉えたものや、人間の存在そのものから来る孤独感など様々な視点があるという。

前者の孤独、つまり自分と外界の疎外感から生じる孤独は、経験したことのない人間は恐らくいないだろう。例えば運動会に自分だけ家族が来ていなくて、一人で(またはお節介な先生と)お弁当を食べた時、友達と喧嘩してしまって1日の学校生活を一人で過ごさねばならなかった時などは誰もが経験しているはずだ。しかし、私は敢えてこれらの疎外感は孤独とは見なさない。これらの孤独は、他人と自分を比べた時に生じる単なる惨めさや寂しさであり、"孤独"の世界の住人が見ているものとは別物である。

 

後者の実存的孤独とはどういうものか。これはつまり自分が"ここ"に"ある"という"孤独"である。では"ここ"に"ある"というのはどういうことか。

 

この宇宙が始まる前、そこは「無」であったという。「無」とは時間や空間さえ存在しないということだ。そこに神の息吹とも呼ぶべきある偶然で、"存在"が生まれた。そして時間は空間と物質を材料に(これら3つはどちらかというと三位一体である)、我々を作り出したのである。

 

つづく

 

著・五十嵐彩夏